いや~、今回はなかなか感動的な場面がありましたねぇ。
相変わらずお寒い日々が続いておりますが、ドラマの中では何度も胸が熱くなりました。。
やはり菊本の自害はすでに於一の将来を思い覚悟を決めての事だったようです。
この件に関しては父忠剛は‘お屋敷を血に汚したのじゃ’と菊本の弔いもなく所持品もすべて処分し、於一には菊本のことは忘れるのじゃ!よいな!と食い下がる於一にも‘下がれと言ったら下がれ!といつになく強行な態度です。
その夜、於一の部屋に、母お幸が於一を気遣い枕元にやって来ます。
そこで菊本が書置きを残していたことを話します。父・母そして於一宛ての三通だったのです。
その中のお幸への内容は自分の身分の低さが藩主の養女となる於一に差し障りがなきよう自害し我が家中より抹消されることを望んでいたらしいとのこと。
そしてお城に上がる時に手渡すはずだった菩薩像を‘辛い時には手を合わせなさい。菊本の成仏にもなります。’と於一にそれを持たせるのでした。
菊本の真意を知り、その菩薩像に菊本への思いを募らせる於一なのでした。
さてまたまた二人の囲碁の対局の時間がやって参りました。
そこで於一は尚五郎に、‘皆が忘れろというのです’と少し寂しげに語ります。
しかし尚五郎は、菊本を一日も早く忘れることです、そして前を向いて生きていくことです!!とかなり熱い尚五郎です。
これには於一も‘尚五郎さんも怒ることがあるのですね・・・といささかビックリ。
そして尚五郎さんには折々に励ましてもらったり、時には勇気付けてもらったり・・・・・感謝しています・・・
これにはグッと来ましたねぇ。尚五郎もですが。。
こうしている間にも世の中は大きく動いているようです。
アメリカのペリーが日本との通商を求め軍艦を差し向けているとの情報が江戸にも届いているようです。
この事を受けて薩摩藩主斉彬は、ただちに薩摩に砲台造りを忠剛に命じます。そして於一の城入りも早まりそうです。
その後江戸に向かった斉彬は老中阿倍と手を組み、水戸の斉昭をも上手く取り込み軍艦を造るよう仕向けます。
一方、着々と準備が進められている今和泉家ですが、斉彬さまからの使者がお付きもすべてこちらで執り行なうとの言葉にすかざずお幸が、姫様にとってお城に上がるのは心細いこと、侍女はたとえ一人でもお供させます!ときっぱり言い切るのでした。
さすが、於一の母上です。於一もこの血を引いているのでしょうねー。
残された時間を少しでもお父上とお話をと思ってもさあその忠剛もどうも照れくさいのか自分からはなかなかです。
そんなお父上に大好きな書物を私の形見としてと手渡すのです。
・・・どうもこういう時は父親ってのはうまく表現出来ないようですね。
時は流れ、いよいよ最後の晩餐の日がやって来ました。
もう明日からは身分が違う身の上です。父として於一の上座に座るのも母兄弟ともこれが最後となるのです。。
万感の思いの忠剛の元に尚五郎が肝付家からのお祝いの品を参上して来ます。
すぐお暇するはずだったのが、忠剛らが尚五郎の気持ちを察し、二人の対局を勧めます。
最後の対局が終わり、互いのお守りを交換しその絆を確かめる二人なのでした。
そして最後の母上からの教えも貰います。
これからは多くの家臣たちの上に立つ身、どんな時にも虚心になりその人の身になって考えるように、そして迷った時は考えるのをやめ感じるのです。自分を信じて感じるがままに任せるのですと。
う~ん、素晴らしい教訓です。悩める現代社会にも多いに役立ちそうです。
ついに当日。
最後のお別れの挨拶を交わします。
お迎えの立派な籠に乗り、窓越しからは父上たちが深々と礼をしてお見送りするのが見えます。
必死で涙をこらえる於一。しかしまっちゃん姫はもうボロボロでした。。
もちろん、見送った忠剛もお幸も・・・・そして尚五郎も。。
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そうそう、記事をアップしてやれやれと一風呂入ってふと思い出したのですが、何か物足りないなぁと思ったら、菊本が於一の閨の足元に現れ、於一に語りかけた言葉も感動しましたねー。
確か今度は霊となり身軽になって姫様のいずこにいようともずっとついてお守りしますというような事を言ったと思うのですが。。なんかジーンとしましたねー。きっとこれで於一も納得されたのではないかと。
もしかしてうすうす感じられている方もおられるかも知れませんが、今回の大河ドラマでは少々セーブして書いております。あまり入れ込むと息切れしそうで、なにせ長丁場ですので。
そんなわけで菊本のようにはなれそうもないまっちゃん姫でした。。
【篤姫豆知識】
於一が篤姫と名を改め、斉彬の娘になるため、鹿児島城に入ったのはペリーの黒船が来航した二日後のことで、斉彬が藩主になって二年四ヶ月後の嘉永六年(1853)六月五日でした。当時の斉彬はまだ一橋慶喜の将軍擁立運動には参加しておらず、篤姫の輿入れもこの時点では無関係でした。
斉彬はむしろ鹿児島城下に軍備拡張・殖産産業のための洋式工場である集成館を建設し、朱子学一辺倒の藩校造士館に蘭学や国学を導入し、人材育成にあたるなど、新時代を見据えての物心両面からの事業に熱心だったようです。
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