さあ、いよいよ今日から11月ですね。
あどうも御無沙汰いたしました~って・・・え?お呼びじゃない?(by植木等)
な~んてこと言わないで久々登場のまっちゃん姫でございまする
かれこれ一か月近くお休みしてしまいましたが、長丁場の大河ドラマも今シリーズもあと数回を残すのみとなりました。
やはり最後は今年も有終の美を飾るべく、これが終わらなきゃ年も越せやしません。
しかし今年はいつもとちょいと違います。
この天地人が終わるとすぐあの話題作”坂の上の雲”が始まるのです。
なんと三年越しの大作とかで、これまた年末の楽しみになりそうです。
さ、そんなことで随分とお休みさせてもらい、何しとってん!とご非難も甘んじて受ける覚悟で、今回は特別に新聞ネタではございますが、ドラマとはちょっと違った家康と兼続との裏話なぞもご紹介してみたいと思います。
さて今回は無念の悲しいお話がありましたね。
ではこのまっちゃん姫とともにザッとおさらいしてみましょう。
一悶着あった本多政重の直江家への婿入りも無事さやに収まり、米沢城入りします。
そこでは一万石を賜わったり、名前も景勝の一字をもらって勝吉と改めたりで、いかにも上杉らしい処遇です。
で晴れて直江家の長女お松と夫婦になったわけですが、そこは形だけの夫婦と言い放ち、お松に心を開こうとはしません。
しかし兼続には本多へ色々と情報を流さねばならないのでかしっかりついておりまする。
そんな折、あのタヌキ家康が、将軍職を嫡男の秀忠に譲ると明言します。
これはつまり豊臣との決別を意味し、天下は我の物を示すこと。
そしてこのことは即勝吉から兼続に伝えられ、徳川につくか豊臣につくか返答を求めるのです。
『さあてどうするかのう・・』と兼続は即答を避けます。
このときはわざとはぐらかしたとのかと思っておりましたが。。
そんな兼続は娘ムコ殿に、内部事情を包み隠さず見せてまわって行きます。
米沢に移ってからは兼続らの懸命の努力で、田畑を広げ住まいを整備し産業の振興に努めており、見違えるほどの発展ぶりです。
それでも度々の河川の決壊があり、ここは米沢出身の伊達政宗の教えを乞うことにします。
対面した政宗はそんな小さなことよりと、もし将軍職を退いたら天下大乱となるぞ・・とほのめかします。
だが当の兼続はそんなことより目の前の事で手いっぱいでございますと意に介しません。
これにはいささか失望の政宗ですが、このまっちゃん姫政宗はああ見えても兼続の”隠れファン”だとに睨んでおりまする
かなり人間的に興味を持っているようなので。
とりあえず気が向けばと政宗らしい約束はします。
こうしている間に巷では疫病が流行り、なんと兼続の二女が病で亡くなってしまいます。
悲しみにくれる直江家、しかも姉であるお松の嘆きは測り知れず思わず、ムコ殿に『そばにいてください!!』と懇願します。
でショックのあまりお松まで倒れてしまいます。
病がちだったお松は兼続の胸の中で無念を残しながら息を引き取ってしまうのでした。
その間じっと陰にいて立ちすくんでいたムコ殿。
自らの使命と情愛との狭間に揺れ、最後まで夫らしい言葉を掛けれなったムコ殿。
そしてお松亡き後、もう自分の役目は終わったと兼続にお暇を申し出るのですが、なんと極秘に鉄砲を製造してる現場を見せムコ殿を驚かせます。
これをどう本多へ報告するかそなたに任せると言う兼続。
そして亡き娘の夫としてここにおれとムコ殿に伝えるのでした。
そこへあの政宗自ら米沢へやってきたととの知らせが。
城下を見渡し、ワシの故郷をこうも変えるとは気に入らんなどといいつつ”だが、悪くない”と兼続の功績を認めるのです。
小さいながらこの地はひとつの天下をなしていると。
しかし兼続はあまりにも多くのものを失いましたと言います。
しかしそれを乗り越えていまようやく私が目指す道が見えて来ましたと万感の思いで語るのでした。。
今の世はあまりに多くの物があり過ぎて、かえって惑わされ見失いがちになります。
失ってみて初めて真実がみえてくることもあるような気がします。
さあ、次回はいよいよ大阪の陣みたいですね。
【天地人特別企画~家康と兼続】
天地人も残すところあと三回となりましたが、先日新聞記事ですが兼続のことが書いてるコラムを見っけたのでここでご紹介したいと思います。
兼続は主君景勝を動かして、石田三成と共に関ヶ原の合戦を引き起こした張本人で、家康を東西ではさみうちにする形にする大陰謀を計画しました。
ドラマではともかくなぜこれだけのことをしておきながら敗戦後死罪にならなかったのか。
そんな疑問にある史料に秘密が隠されていたようです。
家康は腹心の本多正信と二人で密談して政略を決めたようです。
本多は直江だけは斬ったほうがいいと家康に強く具申したらしい。ところが、家康は毛利・佐竹・島津などにはそれぞれ家臣がいて、みな三成に頼まれ主人をすすめて逆心させた連中で直江一人を成敗すれば自分らも殺されると覚悟し大乱を招くおそれあり直江は助けておくのが得策だと言ったらしい。
まだこの時期は家康の権力も確固たるものではなく、領土と命さえ保障すれば大名は自分に臣従すると看破していたようです。
家康は兼続にこの話を伝え助命したそうです。
このことがかつて徳川に敵対した諸大名の家臣たちは『直江さえ右の通りならば、まして我々は苦しからず』と胸をなぜおろしたそうな。
徳川の平和は、家康と直江の政治的腹芸でつくられたといっていいと筆者はいいます。
それは家康の死まで続いたようで、最晩年家康は”群書治要”というこれだけ読めば統治の知恵が備わるという秀逸の書の刊行に執念をかけたものの、開始直後家康は死の床についてしまいます。
しかも”群書治要”には欠本が三冊ありみつからない。
兼続は蔵書家として知られていました。食が細るなか、末期の力を振り絞って兼続に書状を送ります。
『貴殿は群書治要をご所持でないか』元謀反人の兼続に本を借りる。兼続と手を結んで出版事業をやり、”文治の世”を作る姿勢を示します。
これが家康の生涯最後の政治行為であったとのことです。
まっちゃん姫
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